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わかばの風法律事務所 弁護士のBlog

東京都新宿区にある法律事務所

4人の弁護士が、身近で起きた事や感じた事を紹介します

説明責任・損害賠償・刑事罰の境目、イタリアの地震学者無罪判決を材料に

 かねてから、報道・評論・投書・酒場談議などで、刑罰と民事の区別が意識されていないのではないか、と心配でした。ちょうどよい問題提起の材料があります。
 2014年11月12日の朝日新聞に、2009年の地震で300人以上が死亡した地震に関し、イタリアの地震学者らが逆転無罪になったという記事がありました。「逆転」ですから、最初は有罪だったわけです。但し、被告のうち当時政府の防災局副長官であった1名は、禁固2年・執行猶予付きの「有罪」が(減刑されましたが)維持されたのです。罪名は過失致死罪だそうです。
 記事によりますと、防災局副長官が「安心して家にいていい」と述べたことと、地震6日前の政府防災局の検討会において、地震学者らは「(群発地震が続いているが)大地震の予兆とする根拠はない」とし、そのことが、過失致死罪に問われたわけです。これを素材に考えましょう。

 「注目すべきだ」と指摘したい3つの観点があります

第1

 検察は「市民への情報提供のあり方」を問題視して起訴したという点です。予知が失敗したこと、つまり結果責任を問題にしたわけではありません。

第2

 遺族・生存者は判決に納得していないようです。記事によると、傍聴席から「恥を知れ!」という怒りの声が飛んだそうです。

第3

 判決理由は「証拠不十分」ということだそうです。これらをどう見るかについて、問題提起します。

 

・第1の問題提起です。

 「そもそも、起訴が間違いだ。これは刑事罰の問題ではなく、民事事件として扱うべきで、損害賠償すべきかどうかだけが問題である」という考えはどうでしょう。

・第2の問題提起です。

 「損害賠償にしても、日本での国家賠償法に定めているように、国のみが損害賠償請求の相手方となるべきだ」という考えはどうでしょう。

・第3の問題提起です。

 「国に対する請求訴訟においても、担当者が職務を真面目に遂行していたことが判明したら、国の賠償責任は認めるべきではない。結果責任は問えないし、職務を真剣に行っているかどうかだけを問題とすべきだ。」という考えはどうでしょう。

・第4の問題提起です。

 「担当者や学者は、職務上の地位についても左遷などの不利益をうけるべきではない。そうでないと結果責任を問われかねないことを恐れて、真面目にやりたい人も萎縮し、ことなかれ主義になってしまう」という考えはどうでしょう。

・第5の問題提起です。

 「但し、政府には説明責任はある。充分説明することが求められるが、充分か否かは政府の裁量である。あとは選挙結果の問題だ。」という考えが当然出て来ます。

 
 さて、上記の問題提起のなかの考えを、すべて肯定する立場に立つとどうなるかを述べてみましょう。

第1に

 刑事罰は生じないので、起訴すべきではないということになります。逮捕自体不当であり、仮に逮捕されていたら、直ちに釈放します。仮に世論を気にして起訴したとしても、裁判所は無罪を言い渡すべきだということになります。証拠不十分だから無罪なのではありません、証拠を集めれば有罪になる余地は「ない」のです。あくまでも、「そもそも罪となるべき行為に該当しない」ので無罪です。証拠調べすら不要でしょう。

第2に

 国家相手の損害賠償訴訟のみが認められるべきですから、訴訟も、個人相手であれば、証拠しらべなどせず、第1回の期日に、直ちに棄却(却下が正しいかもしれませんが、一応棄却としておきます)を言い渡すことになります。国を相手としたときのみ訴訟が実質的に進行します。

第3に

 国の責任も否定されることになります。「当時の学問・科学の知見・水準において、家から退去すべきだとの結論以外はありえないのに、あえて、もしくは誤って、逆のことを宣言した」と判断された場合は、職務を真面目に遂行していたとはさすがに言えないので、賠償すべきということになりますが、そうでない限りは棄却するべきだ、ということになります。

第4に

 担当者を左遷するのは、許されないことになります。そうでないと結局将来に向って、各担当者の仕事が、「ことなかれ主義」に陥ってしまうため、行政がおかしくなるではないか、というわけです。

第5に

 政府の説明責任を認める場合でも「政府の責任者が説明を行うべきものであり、その説明についての是非は選挙で判断されることになる」という考えに落ち着くでしょう。

 

 第4・第5の部分は、もう少し別の考えもあるでしょうが、議論の一貫性からは上記のようになるでしょう。それと「税金で救済するのだから、この事件の被害者だけ救済するのは不公平にならないか」という視点も、どうしても出てくるでしょう。ここは法的責任の有無の議論ではなく、責任が「有る」としても「妥当かどうか」という別の論点ですが、現実には無視できない影響を与える視点でしょう。

 さて、ここまで来てどう考えますか。どのような立場に立つかはともかく、「遺族や実際に被害を受けた人はどうなるのだ、あるいは遺族は納得できないのではないか」という当然の疑問が生じます。この疑問に対する制度の一つとして、現在の日本では、被害者が刑事手続きに参加する制度も出来ています。また、保険はまさにこのような場合のために設計されているはずです。ですが、上記の「納得できない」という問いかけは、刑罰の基本理念にかかわる疑問を含むことも見落とせません。
 この疑問は、刑法を学ぶ場合の議論として「結果責任でよいのか」「応報刑(目には目を、歯には歯を)はどうだ」「謙抑性が必要だ」「罪刑法定主義は前提だ」「社会防衛の視点をどう見るのか」「構成要件の解釈はどうあるべきか」「過失犯の要件と、故意犯との違いはなにか」などの基本問題につながっています、いずれも古くから議論されてきたことです。

 例えば、交通事故で人が死亡した場合は、応報刑という観点だけで言えば「死刑」ですが、そうはいかないでしょう。そうすると、過失の問題をどう考えるかということになります。さらに進んで、イタリアのケースをそもそも過失と見るべきなのか、過失だとしても刑罰か民事か、両方なのか、など議論は果てしないと言ってもよいのです。

 刑法は、一般の人でも「議論にもっとも参加しやすい」と言われています。実際に、刑事罰については、普通の方と話すと、法律家なみ、あるいはそれ以上の鋭い議論が出ます。「刑罰はどうあるべきか」という議論が盛んになること自体は、大変歓迎すべきことでしょう。
 しかし、それ以降の、「損害が生じた場合、それを社会がどのように負担し、どのように支払う形の社会システムを創るか」という部分も同じくらい大切です。これを民事と呼んでもいいのですが、この点についても、社会的にもっともっと議論が盛んになってもよい筈です。
 刑罰・民事の区別・損害賠償・社会的地位・説明責任の4種は意識的に区別して議論すべきです。そうすると、時間はかかるでしょうが、実り多い結果が生じるはずです。現実に日本でどうなっているかについては、あえて触れません。問題提起として書いてみました。

                                    以上

                              弁護士 小林政秀

 

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