わかばの風法律事務所 弁護士のBlog

東京都新宿区にある法律事務所

5人の弁護士が、新しい法律や身近で起きた事、感じた事をご紹介します

四谷怪談の史跡?

 四谷3丁目の地下鉄メトロ駅の張り紙に、四谷怪談の神社とお寺の紹介が載っていた。平成13年に四谷に事務所を構えてからかれこれ14年目になるというのに、とんとそういう場所に足を運ばなかったから、年が明けて行ってみた。
 四谷警察署の横の路地を入って、警察署の裏側の住宅街の路地の一角に、於岩稲荷田宮神社(お岩稲荷)があった。
 この神社の斜め真向いには陽運寺というお寺があり、この寺は昭和の初めころの建立というが、こちらもお岩さんを祀ってある。いずれも紅い幟が立っていてすぐわかる。陽運寺には1月というので手水鉢には黄色い蝋梅(ろうばい)の咲く枝が添えてあり、もう一つには寒椿の白い花の小枝が添えられていて、手入れが行き届いていた。
 お岩さんは江戸時代の初期、田宮家の娘で、四谷左門町で健気な一生を送った女性で、夫婦仲は円満そのものであったようだ。お岩さんの奮闘で田宮家を家計的に助けたというので、このお稲荷は福を招き商売繁盛、家内安全の神として江戸の人々の人気を集めたそうだが、死後、200年もたってから、江戸後期、歌舞伎作者の鶴屋南北という人が、想像力豊かに、四谷左門町とは何の関係もない「東海道四谷怪談」を作り上げたという。江戸の文化が爛熟期に入った文政年間というから1800年代に幽霊物の読み物が最盛期を迎え、「東海道四谷怪談」の歌舞伎も江戸の話題をさらったとされる。
 四谷怪談で有名となったお岩さんだが、実は、嫁、妻の鏡のような女性であったという。怪談物に仕立て上げられたのは何とも皮肉である。
 この神社とお寺、住宅街の中にひっそりとあるが、地域に密着しているのか、私がうろうろしている最中にも、数人の近所の人や勤め人の参拝者が訪れていた。
 事務所の近くのこうした隠れた場所にも、時には足を運んでみるのもいいものである。
                      2015年1月26日  森田太三

説明責任・損害賠償・刑事罰の境目、イタリアの地震学者無罪判決を材料に

 かねてから、報道・評論・投書・酒場談議などで、刑罰と民事の区別が意識されていないのではないか、と心配でした。ちょうどよい問題提起の材料があります。
 2014年11月12日の朝日新聞に、2009年の地震で300人以上が死亡した地震に関し、イタリアの地震学者らが逆転無罪になったという記事がありました。「逆転」ですから、最初は有罪だったわけです。但し、被告のうち当時政府の防災局副長官であった1名は、禁固2年・執行猶予付きの「有罪」が(減刑されましたが)維持されたのです。罪名は過失致死罪だそうです。
 記事によりますと、防災局副長官が「安心して家にいていい」と述べたことと、地震6日前の政府防災局の検討会において、地震学者らは「(群発地震が続いているが)大地震の予兆とする根拠はない」とし、そのことが、過失致死罪に問われたわけです。これを素材に考えましょう。

 「注目すべきだ」と指摘したい3つの観点があります

第1

 検察は「市民への情報提供のあり方」を問題視して起訴したという点です。予知が失敗したこと、つまり結果責任を問題にしたわけではありません。

第2

 遺族・生存者は判決に納得していないようです。記事によると、傍聴席から「恥を知れ!」という怒りの声が飛んだそうです。

第3

 判決理由は「証拠不十分」ということだそうです。これらをどう見るかについて、問題提起します。

 

・第1の問題提起です。

 「そもそも、起訴が間違いだ。これは刑事罰の問題ではなく、民事事件として扱うべきで、損害賠償すべきかどうかだけが問題である」という考えはどうでしょう。

・第2の問題提起です。

 「損害賠償にしても、日本での国家賠償法に定めているように、国のみが損害賠償請求の相手方となるべきだ」という考えはどうでしょう。

・第3の問題提起です。

 「国に対する請求訴訟においても、担当者が職務を真面目に遂行していたことが判明したら、国の賠償責任は認めるべきではない。結果責任は問えないし、職務を真剣に行っているかどうかだけを問題とすべきだ。」という考えはどうでしょう。

・第4の問題提起です。

 「担当者や学者は、職務上の地位についても左遷などの不利益をうけるべきではない。そうでないと結果責任を問われかねないことを恐れて、真面目にやりたい人も萎縮し、ことなかれ主義になってしまう」という考えはどうでしょう。

・第5の問題提起です。

 「但し、政府には説明責任はある。充分説明することが求められるが、充分か否かは政府の裁量である。あとは選挙結果の問題だ。」という考えが当然出て来ます。

 
 さて、上記の問題提起のなかの考えを、すべて肯定する立場に立つとどうなるかを述べてみましょう。

第1に

 刑事罰は生じないので、起訴すべきではないということになります。逮捕自体不当であり、仮に逮捕されていたら、直ちに釈放します。仮に世論を気にして起訴したとしても、裁判所は無罪を言い渡すべきだということになります。証拠不十分だから無罪なのではありません、証拠を集めれば有罪になる余地は「ない」のです。あくまでも、「そもそも罪となるべき行為に該当しない」ので無罪です。証拠調べすら不要でしょう。

第2に

 国家相手の損害賠償訴訟のみが認められるべきですから、訴訟も、個人相手であれば、証拠しらべなどせず、第1回の期日に、直ちに棄却(却下が正しいかもしれませんが、一応棄却としておきます)を言い渡すことになります。国を相手としたときのみ訴訟が実質的に進行します。

第3に

 国の責任も否定されることになります。「当時の学問・科学の知見・水準において、家から退去すべきだとの結論以外はありえないのに、あえて、もしくは誤って、逆のことを宣言した」と判断された場合は、職務を真面目に遂行していたとはさすがに言えないので、賠償すべきということになりますが、そうでない限りは棄却するべきだ、ということになります。

第4に

 担当者を左遷するのは、許されないことになります。そうでないと結局将来に向って、各担当者の仕事が、「ことなかれ主義」に陥ってしまうため、行政がおかしくなるではないか、というわけです。

第5に

 政府の説明責任を認める場合でも「政府の責任者が説明を行うべきものであり、その説明についての是非は選挙で判断されることになる」という考えに落ち着くでしょう。

 

 第4・第5の部分は、もう少し別の考えもあるでしょうが、議論の一貫性からは上記のようになるでしょう。それと「税金で救済するのだから、この事件の被害者だけ救済するのは不公平にならないか」という視点も、どうしても出てくるでしょう。ここは法的責任の有無の議論ではなく、責任が「有る」としても「妥当かどうか」という別の論点ですが、現実には無視できない影響を与える視点でしょう。

 さて、ここまで来てどう考えますか。どのような立場に立つかはともかく、「遺族や実際に被害を受けた人はどうなるのだ、あるいは遺族は納得できないのではないか」という当然の疑問が生じます。この疑問に対する制度の一つとして、現在の日本では、被害者が刑事手続きに参加する制度も出来ています。また、保険はまさにこのような場合のために設計されているはずです。ですが、上記の「納得できない」という問いかけは、刑罰の基本理念にかかわる疑問を含むことも見落とせません。
 この疑問は、刑法を学ぶ場合の議論として「結果責任でよいのか」「応報刑(目には目を、歯には歯を)はどうだ」「謙抑性が必要だ」「罪刑法定主義は前提だ」「社会防衛の視点をどう見るのか」「構成要件の解釈はどうあるべきか」「過失犯の要件と、故意犯との違いはなにか」などの基本問題につながっています、いずれも古くから議論されてきたことです。

 例えば、交通事故で人が死亡した場合は、応報刑という観点だけで言えば「死刑」ですが、そうはいかないでしょう。そうすると、過失の問題をどう考えるかということになります。さらに進んで、イタリアのケースをそもそも過失と見るべきなのか、過失だとしても刑罰か民事か、両方なのか、など議論は果てしないと言ってもよいのです。

 刑法は、一般の人でも「議論にもっとも参加しやすい」と言われています。実際に、刑事罰については、普通の方と話すと、法律家なみ、あるいはそれ以上の鋭い議論が出ます。「刑罰はどうあるべきか」という議論が盛んになること自体は、大変歓迎すべきことでしょう。
 しかし、それ以降の、「損害が生じた場合、それを社会がどのように負担し、どのように支払う形の社会システムを創るか」という部分も同じくらい大切です。これを民事と呼んでもいいのですが、この点についても、社会的にもっともっと議論が盛んになってもよい筈です。
 刑罰・民事の区別・損害賠償・社会的地位・説明責任の4種は意識的に区別して議論すべきです。そうすると、時間はかかるでしょうが、実り多い結果が生じるはずです。現実に日本でどうなっているかについては、あえて触れません。問題提起として書いてみました。

                                    以上

                              弁護士 小林政秀

 

適性な弁護士人口はどれくらい?

1 理想

 法曹人口は毎年500人の時代が続きましたが、1991年(平成3年)以降少しずつ増え、1999年(平成11年)には1、000人、2002年(平成14年)には1、200人、2004年(平成16年)には1、500人までになりました。その後、毎年の法曹人口の数を3,000人に増やし、2010年(平成22年)に司法試験合格者を3,000人に、2018年(平成30年)には裁判官、検察官を含めた法曹人口を5万人にするということになりました。
 これは、2001年6月に出された政府の諮問機関である司法制度改革審議会の意見書で提案されたものでした。その目的は、今後国民の生活において法曹の役割は大きくなるし、まだまだ全国的にも弁護士がいない地域が多くあり、また、経済金融の国際化の進展や人権、環境などの地球的課題などで紛争も多様化、高度化してゆくので、それに見合った法律家を「国民の社会生活上の医師」として多く作り出す、また弁護士、裁判官、検察官だけでなく、社会の様々な団体、企業、公共団体にも法律の資格をもった者が多数参画し、全体として社会の隅々に法律家が活動する社会をつくることが必要だとされたためでした。


2 外国の例
 当時、日本の法曹人口は諸外国と比べても少ないという事情も勘案されました。例えば、2001年当時、法曹人口は日本が20,000人(法曹1人あたりの国民の数は6,300人)、アメリカが約941,000人(同約290人)、イギリスが約83,000人(同約710人)、フランスが36,000人(同約710人)でした。


3 現実は
 弁護士会も法曹人口を大幅に増やすことは賛成し取り組んできました。ところが、今は、毎年の司法試験合格者は2,000人前後に止められ、3,000人はとても実現不可能な数とされています。
 何故でしょうか。司法試験合格者は、その後1年の司法修習を経て、弁護士、裁判官、検察官になってゆきますが、一番の原因は、毎年多くの弁護志望者が法律事務所への就職先がなく、すぐに独立して開業するとか、そもそも弁護士登録もできない事態が生じたからでした。弁護士の仕事は、医師と同様に、資格を取ればすぐに法律の紛争を手掛けることができるというわけにはいきません。法律事務所に入り先輩弁護士と一緒に具体的な法律紛争に関わり、「生きた法律の適用」「実務のトレーニング」を学ばなければ、一人前の法律家、弁護士にはなれません。そうした訓練を受けない法律家が生まれれば、結局、困りごとを抱えた国民の権利、利益を法律家として擁護してゆく要求にも応じられない、かえって害になるような結果となります。
 また、社会の様々な団体、企業、公共団体にも法律有資格者として参画してゆけるという考えも、現実にはそう容易ではないという現実もありました。
 現在、毎年の司法試験合格者は2,000人前後に止められていますが、この数でもまだ登録できない者が毎年400人前後も出ています。このためか、最近では大学の法学部に入学する学生も減り、定員割れをする大学も出てきました。
 結局、増加した法律家を社会が受け入れる容量が大きくならなかったというのが一番の原因でした。


4 外国とは違う
 では、どうして外国は日本と比べ法曹人口が多いのでしょうか。外国では法曹人口を受け入れる社会的な仕組みが日本と異なっていました。
 まず、司法予算が違います。司法制度は社会のインフラとして必要なもので、法律家のためにあるものではありません。そのためには予算が必要です。例えば、経済的に厳しい国民を支援する法律扶助の額を見ても、日本は43億円に対し、イギリスは1,630億円、ドイツで508億円、フランスで269億円です(2010年度統計)。国民一人当たりの額を見れば、日本は34円に対し、イギリスは2,690円、ドイツで616円、フランスで426円です。今の社会では、労働分野でも福祉分野でも経済や環境問題でも困った人は多くいます。法律の助けを借りなければならない紛争も多くあります。でも、一定の経済的な裏付けがなければ弁護士や裁判所に相談には行けません。法律家の数を増やしても、それだけでは「国民の社会生活上の医師」にはなれない訳です。
 また、司法書士行政書士、税理士、弁理士など同じく法律に関連する業務に携わっている隣接士業も外国では多くを弁護士が担っているのに対し(アメリカの弁護士の数が多いとされるのもこのためです)、日本では独立の士業として活動しています。例えば、司法書士行政書士、税理士、弁理士などの隣接士業の数は、現在でも14万人以上となっています。現在の弁護士数35,000人と合わせても、すでに約18万人前後の法律実務家がいることになります。


5 適正な弁護士人口はどれくらい?
 弁護士会では、今、毎年の司法試験合格者を1,500人まで減らすよう提案しています。
 これでも、将来、弁護士人口は5万人になると言われています。法律の専門知識をもった弁護士が社会の中でもっと有効に身近に活用されることはいいことです。
 そのためには、結局、増加した法律家を社会が受け入れる容量を大きくすることでしか解決しないでしょう。国民が司法や法律家を利用しやすくする制度をどう作り出すのか、法律扶助などの司法予算を増やし、裁判官、検察官も増やし、裁判所の手続きをもっと安価で利用しやすいものとし、社会の様々な団体、企業、公共団体に法律の資格をもった者が多数参画してゆけるような整備を推し進めるほかはないようです。
                              弁護士 森田太三

死刑制度について ~袴田事件再審開始決定~

 平成26年3月27日、静岡地裁は、袴田事件の再審開始を決定し、袴田氏を釈放しました。
 検察は3月31日に即時抗告しましたが、静岡地裁決定によれば、犯人のものとされた衣類に残る血痕は、袴田氏のDNAとも被害者のDNAとも一致せず、ズボンのサイズも袴田氏がはけない細身のものだったことが判明、犯人のものとされた衣類は捜査機関によってねつ造された疑いが相当程度あるとのこと。冤罪であることはほぼ間違いないでしょう。一日も早く再審が開始され、袴田氏が無罪判決を勝ち取る日がくることを祈ります。
 袴田氏は現在78歳、釈放された姿に、逮捕されたとき30歳だったプロボクサーの面影はありません。死刑判決確定から33年間、いつ死刑執行されるかわからない恐怖の日々を経て、袴田氏は精神を病んでしまったとも報じられています。
 改めて死刑制度の恐ろしさを考えさせられました。
 皆さんは死刑制度に賛成ですか?
 死刑制度についての最近の世論調査では8割以上の方が死刑制度に賛成だと回答しています(平成21年の調査では過去最高の85.6%)。最近の厳罰化の風潮もあるのでしょうか。
 しかし、人が裁く以上、誤判のリスクをゼロにはできません。
 アメリカではDNA鑑定によって冤罪が明らかになった死刑囚が100人以上いたそうです。
 日本でも、これまでに死刑判決確定後、数十年経過してから再審が開始され、冤罪が明らかになった事件は4件、袴田事件で無罪が確定すれば5件目となります。他にも冤罪を訴えていた死刑囚がいることを考えると、無実の人が死刑執行されてしまったケースがあるかもしれません。
 死刑が執行された後に冤罪が判明しても、取り返しがつきません。
 死刑が執行されなくても、無実の人が死刑執行の恐怖に耐えながら過ごす日々の苛酷さは想像を絶するものがあります。精神を病んでしまうのも当然です。
 私は、冤罪が起こらないとしても、人の更生可能性を完全否定する死刑制度には反対の立場ですが、誤判のリスクをゼロにはできない以上、死刑制度は無実の人を国家が殺してしまう可能性があるのだということを、多くの人に考えてもらいたい、そして、死刑廃止に向けた議論につなげていただきたいと思います。

                          2014年3月記 弁護士 酒井桃子

 

近所で火事が起きたら?

 平成26年正月に、有楽町駅近くの線路沿いから火事が出て、新幹線が遅れました。私も大変迷惑した一人です。

 ところで、近所で火事が起き、皆さんもなんらかの被害を受けたとしたらどうなるかご存じですか。「火事を起こした人に賠償してもらえる」まずはそう考えますよね。ところが、そう簡単にはいかないのです。
 明治32年に「失火ノ責任ニ関スル法律」というのが出来ています、それがまだ有効です(少なくともそう考えられています)。そこでは、「重過失の場合だけ責任を負う」となっています。「重過失とはなんだ」ということになりますが、通常なら過失とされる「軽過失を除く」という話なのです。よく分かりませんね。それも当然でして、結局、個々に判断するしかないのです。例えば、煙草を消さなかったとすると、「多分」重過失と私は思いますが、必ずそうなるかと言われると断言はできません。
 よく分からないということは、結局、話し合いが無理なら、訴訟をやってみないと決着がつかないということになるのです。あと、火事を出した人にお金がなければ、勝訴しても「取れません」ご注意ください。こう書くと「そんなばかな」と思われる人も多いでしょう。でも、上記の法律は木造建築が多く、火事が多い国であったという事情を反映しているわけです。現代では、もう廃止すべき法律かもしれません。
 それでは、「やはり火災保険を掛けておこう」ということにはなりますね。損害保険というジャンルですが、これも意外にも結構な縛りがあります。「万が一に備えて、多額の保険を掛けておいたぞ」と思って請求しても、なんだかんだと保険会社から面倒なことを言われるはずです。それ自体は、まあやむをえないでしょう。実は、いろんな決まりがあります、例えば「焼け太りを許さない」という原則があるのはご存じですか。最近では、意外に知られていないのではないでしょうか。
 言葉でいうと「被保険利益がないものはだめ」「利得禁止の原則」というものがあります。やはりなんのことか分かりませんですね。前者は例えば、親の遺品であって、自分だけに価値のあるものとか、密輸品とかのことです。後者は、例えば、500万くらいしか価値のない古い家屋に、1億円の保険を掛けても、500万しか払わないよ、ということです。こう言われると、なんとなく理解できますね。つまり、時価が原則なのです。もっとも、「特約」があれば、それによって、再調達価格が補償されます。ですから、保険に入る時には、「特約」について話合い、内容を充分確認すべきです。このように、火災保険も、実際には意外に難しいのです、例えば中古の機械類ではどうでしょう。なかなかはっきりしません。やはりケースバイケースです。せめて、保険に入るときに、細かく・具体的に対象をはっきりさせておくべきです。「・・・・一式」となると危ういですよ。
 さらに、保険法13条には「損害の発生・拡大の防止義務」なんていうのもあるのです。まあこれは、「消火には協力しろよ」という意味位で理解しておいてください。しかも、「告知義務違反」なんてのもあるんです。「聞かれたのに、ちゃんと答えなかったので支払わないぞ」という訳です。あと、「延焼を防ぐために、家を一部壊したらどうか」という問題もあります。これは、「消防の活動のために必要な処置」と認められれば、抽象的には保険金が出るはずですが、やはり、保険契約時にちゃんと確認しておかなくてはいけません。
 という訳で、火事の後始末は、意外にも難しい問題なのです。法律相談くらいは必要だと考えておいてください。

                                  小林政秀

住民票等について被害者保護のための支援措置の対象が拡大

 2006年7月以降、DV(配偶者暴力)の被害者やストーカー被害者については、加害者に避難先を知られないようにして被害者を保護するために、住民票等の閲覧を制限する支援措置が実施されてきました。

 しかし、児童虐待の場合は同様の制度がなく、被虐待児を保護しても、虐待親が避難先を探索して連れ戻す恐れがあるような場合には、住民票を移せないという問題がありました。
 そこで、2012年9月26日、総務省は、「児童虐待を受けた児童である被害者であり、かつ、再び児童虐待を受けるおそれがあるもの又は監護等を受けることに支障が生じるおそれがあるもの」について支援措置の対象に加える旨を各自治体に通知し、同10月より実施されることになりました。
 また、上記総務省の通知では、DV・ストーカー行為等の被害者、児童虐待の被害者に準ずる者についても、市町村長の判断で支援措置の対象とすることができることが明示されました。これにより、具体的には、配偶者ではない交際相手から暴力を受けているケース(ストーカー行為のないもの)、児童虐待の被害者が18歳を越えたケース、児童ではない者が虐待を受けているケースなどでも、住民票等の閲覧を制限する支援措置を利用できるようになりました。
 もっとも、上記支援措置をとれば問題が解決するというものではありません。全面的に解決するためには法的措置も視野に入れて検討すべきです。
 被害に遭われた場合には、まず弁護士にご相談ください。
                                2013年3月記
                                 酒井 桃子

遺言書は役に立つか

 最近は、「遺言書の勧め」が目につきます。基本的に「良いことだ」とする論調ですね。信託銀行の「業務推進」の面もあるでしょう。「相続人間の争いを予防できる」ので良いと言う人が多いように思います。
 水をさすようですが、「そうでもない」というのが私どもの実感です。弁護士の業務として公正証書遺言・自筆証書遺言どちらも、よく作成もしますし、お目にもかかります。実は、争いは遺言書があってもよく起きるのです。却って、争いが大きくなることもあるくらいです。
 何故か、基本は、相続人が納得しない場合が相当数あるからです。そもそも、遺言書が本当に役に立つケースは限定されていると考えるべきだ、というのが私の意見です。
 それはおかしい、と首をかしげる方も多いでしょう。勿論、役に立っている場合も当然あるでしょう、ですが、「遺留分」という制度が一方で認められているのです。遺留分とは、推定相続人に対し(有効な遺言書があっても)一定の取り分を認めるものです。ですから、相続人間での対立があれば、遺留分をめぐる争いが必ず生ずるのです。つまり、遺言書は「争い自体」を完全になくしてしまえる制度ではないのです。
 但し、逆に言うと、遺留分を有する人がない場合は確かに非常に有効です。それは、「笑う相続人」と呼ばれるケースで、夫婦に子供のない場合です。うっかりする人が非常に多いのですが、例えば夫が死亡した場合、妻がすべて貰えるわけではなく、夫の両親(両親が死亡している場合は夫の兄弟・姉妹)に権利が生じます。ですが、夫の両親死亡の場合、残された兄弟・姉妹は「遺留分」を持たないのです。従って、夫婦が「相互に」遺言書を作って、「配偶者にすべて与える」としておけば、義理の両親が非常に長生きなさるケースを除き、慌てなくてすみます。
 では、そのほかの場合は無意味かというと、そうでもない。取り分が相当違ってきますし、ある特定の不動産を特定の相続人に渡すなどの利用方法があり、それらの限度では、やはり大きく意味を持ちます。しかし、一方で、遺言によってはずされた相続人は、気持ちは良くありません。従って、この側面を考えると、遺言が存在するゆえに、かえって相続人間で溝ができる可能性は高いのです。
 あと、実務的には、「遺言執行者」の問題が出て来ます。不動産について、遺言で取得した人が単独で登記できるように、遺言書の文言が整備されてきていますので、遺言執行者の選任は重要度が低下しています。ですが、様々な問題があるため選任が避けられないことも多いのです。例えば株式の分割などを考えてみてください。ところが、相続人と遺言執行者の意見が対立すると、ストップがかかったような具合になります。長期化せざるを得なくなります。時間がかかる場合、それなら、遺言書がなくても同じだ、となりかねないのです。
 ですから、ないほうがすっきりする、却って話し合いの邪魔だ、と考えるかどうかです。ケース・バイ・ケースでしょうが、最後は個人の価値観にかかります。皆さんはどう思われますか。
                              平成24年11月

                                  小林政秀

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