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わかばの風法律事務所 弁護士のBlog

東京都新宿区にある法律事務所

4人の弁護士が、身近で起きた事や感じた事を紹介します

夫婦同姓の最高裁判決について

 夫婦同姓制度についての最高裁判決が2015年12月16日になされました。

 「夫婦は同姓」とする民法の規定は憲法に違反しない。但し、夫婦が選択して夫婦別姓を名乗ることに合理性がないと判断した訳ではなく、この制度の在り方は国会で論じ判断するものとするという内容です。明治時代から100年以上続く民法の規定に最高裁がどう判断するか注目されましたが、「どちらの姓を選ぶかは当事者にゆだねられている。また夫婦同姓は社会に定着しており、家族の姓を一つに定めることには合理性がある」という理由で合憲とされました。
 訴えたのは女性ですが、改姓によって個人のアイデンティティーが失われ、個人の尊厳に違反すると主張しました。確かに姓の選択は夫婦にゆだねられていますが、現実には女性の方が改姓するのが圧倒的に多いです。我が家もどちらの姓を選択するか議論した覚えがありますが、やはり夫の姓を選択することになりました。やはり女性に分が悪い。旧姓の通称使用が広まることで一定程度は女性側の不利益を緩和できるという実情が考慮されていますが、15人の裁判官のうち5人が違憲とし、そのうち3人の女性裁判官が全員違憲と判断したのも自立した女性の立場からみれば違憲と映るというのが現実なのかもしれません。

 合憲といっても、今回の最高裁の判断はいわば消極的合憲判断で、選択的別姓が不合理とまでは言っておらず、国会での判断すなわち国民の判断、世論に最終的にはゆだねた形になりました。
 私個人は夫婦別姓でも構いませんが、生まれた子供が両親双方と同姓であるというのも子供にとって良いことではないかとも思ったりします。しかし、子供が片親と違った姓をもったからといって、心身の成長に弊害が生じるというデータはなく、子供に対する両親の愛情の質に軽重が生ずるわけでもないからあまり説得力はないかもしれません。家族の絆が壊れるという意見もありますが、同じ儒教の影響を受けた中国や韓国は別姓が原則で、それでも家族が壊れたとか夫婦仲、家族仲が悪いということは聞きません。

 日本の風土、社会に合わないという意見もありますが、日本も明治時代の半ばまでは夫婦別姓だったということで、このことはあまり知られていません。明治になって戸籍制度が整備されてから夫婦は同姓となったのであって、その歴史はそれほど長くありません。今後はますます女性の社会進出が求められることになるでしょうが、経済的にも自立し男性と対等となればなるほど、呼び親しまれた旧姓のままで通したいと希望する女性は増え、選択的夫婦別姓の声は大きくなっていくのを止めることはできないのかもしれません。

 面白い川柳があります。
       旧姓で呼ばれてときめき蘇り
 自立したい女性のささやかな思いと受け止めましょう。
 こんな風に言われた御仁もいるはずです。
       母さんと呼ぶなと妻にしかられて
       お父ちゃん愛してるより自立して

 今の男性も同様に自立しなければならないでしょう。

                                    以上

                     平成27年12月 弁護士 森田太三

成人年齢引下げ、このままで大丈夫か

 「18歳で成人だということが決まりました」と言っても話はそれで終わりません。一部反対という雑感を述べたいのです。

 まず、成人というのは「民法上そうなる」ということです。「それならいいではないか民法が生活の基本を決めているのでしょう」という反応は
健全且つ正しいのですが、例外があります。それは「特別法は別だ」といいうことです。
 具体的には「少年法をどうするか、18歳から、これまでの成人と同じに、通常の刑事裁判手続きにするのか」「金銭・契約などでこれまでの成人と同じ扱いにしてよいのか、18歳くらいでは詐欺もしくは類似の事件あるいは不利であることのわからないままサインするなどで、さまざまな形で被害者になりやすい、そこを放置するのは大変心配だ」ということです。いずれも特別法で例外の定めをするべきだと言う議論に結びつきます。詐欺被害などについては、結局、なんらかの保護規定を設けるか・そのための特別法を作るかという話しになるでしょう。例えば「保証人にはなれない」とか「一定金額以上は扱えない」とか「契約しても場合によっては取り消せるようにする」などです。

 少年法については意見が分かれるだろうと思います。それは、非常にセンセーショナルな事件が起きたり、大きく報道されたりすることも一因だろうと思います。「こんなことをするとはけしからん厳罰にすべきだ」という考えが増えていくと、特別扱いは不要だということになりやすいでしょう。この点について弁護士で少年事件を扱っている人の意見は「少年の矯正・社会復帰という面で少年法による運用は、おおきな成果を上げてきている、現に統計上少年事件が減ってきているのはその運用によるところが大きい。従って現行制度を維持すべきだ」というものです。はっきりとした統計上の根拠に基づいての意見です。弁護士の多数はこれに賛成しています。私もこの意見に賛成します。私なりの意見を付け加えると、人一人が社会復帰することは、目に見えにくいが全体として非常に有益であるというものです。それと「どんな人にも、どんなケースでも最低ワンチャンスを与えるべきだ」と考えるからです。人とはそう強いものではない、誰にでも失敗くらいはある、というのが実感だからです。皆さんはどのようにお考えでしょうか。

 お金についての問題、特に詐欺被害やそれと知らずに不利な契約を結んでしまうケースが想定されるため、18・19歳段階では、はっきりと「保護規定が必要だ」と考えます。それはほんとに多くの法律相談をやってきたからです。大人でも同じですが、優しくて素直な人が騙されやすいのです。被害といっても、若い人には財産はないのですから、実際には「借金を負わせられる」のです。つまり、18・19歳という時点で、つまり人生の実質的な出発点で「マイナスにされてしまう」のです。これは許されるべきではないでしょう。本来、成人であっても、騙された人は同情されるべきであり、放置すべきではありません。まして18・19歳ではなおさらです。これまでの職業的な体験から断言します。

 「騙される方が悪い、愚かだ」という考えは広く存在しています。ですがそれは唾棄すべきものです、捨て去ってください。「騙すほうを放置してよいのですか?どちらが悪いのですか?」と正面から問われると、大多数は、「それは騙す方がよくない」とお考えになるでしょう。実際に、学生時代に友人を助けるつもりで裏切られたようなケースは、非常に重大な人間不信に陥ります、見ていても大変辛い状況になります。勿論高齢で被害に遭った方も同じように同情さるべきです。生活という点では高齢者の方が大変ですが、それは財産を取り戻すという内容です。18・19歳時点では、マイナスからの出発ということになるのです。そうならないように保護されることは必要であり、社会にとっても絶対に有益な結果をもたらします。

 今後の方向を決める立法に向けての動きが今始まっていますが、上記の私の意見に対する多くの方の賛同があれば必ず保護法制への力になると確信しています。
                                      以上

                     平成27年11月 弁護士 小林政秀

集団的自衛権の行使を可能とする安保法案

 2015年9月19日午前2時過ぎ、集団的自衛権の行使を可能とする安保法案が可決成立しました。
 今回の安保法案については、学生を中心とした抗議活動が全国各地で繰り広げられ、ニュースでも取り上げられて話題になりましたが、皆さんはどのように思われましたか?

 政府は、今の国際情勢の下で平和を維持するためには必要な法律だ、憲法9条集団的自衛権を否定するものではないのだと説明していますが、圧倒的多数の憲法学者、元最高裁長官、元内閣法制局長官、全国すべての弁護士会から違憲だと指摘されています。
 従来の憲法解釈を無視し、専門家の意見を無視し、世論調査やデモから見えてくる市民の反対の声をも無視して、法律案を強行採決してしまうというのは前代未聞の事態です。
 戦前には治安維持法が制定され、言論弾圧がなされ、政府や軍の批判ができなくなり、軍の暴走を許し、戦争に突き進んだという歴史がありました。その歴史に対する反省から、「立憲主義」の憲法が制定され、国家権力の暴走を止められるようにしたはずなのですが、今回のように憲法解釈を恣意的に変更できるとなれば、憲法は歯止めにならなくなってしまいます。
 議会制民主主義なのだから、国会で決めた事に文句をいうのはおかしいと言う人もいますが、国会も国家権力であり、憲法に拘束されるのです。憲法違反の法律を制定することは許されません。どうしても憲法に抵触する法律を制定する必要があるというのであれば、まず、憲法を改正するべきで、そのための手続も憲法は定めています。
 ところが、今回の安保法制は、参考人として国会に招致された3人の憲法学者全員から憲法違反だと指摘され、更に、圧倒的多数の憲法学者、元最高裁長官、元内閣法制局長官、全国すべての弁護士会からも憲法違反だと指摘されるほどに、憲法違反が明白であったにもかかわらず、憲法改正の手続をとることも、法案を修正することもなく、強行採決されてしまいました。過去に例のない異常事態です。
 もちろん、法律が憲法違反かどうかを最終的に判断するのは裁判所ですが、日本には憲法裁判所がないため、通常の裁判の中で必要がない限り、憲法違反かどうかを裁判所が判断することはできません。裁判所の判断を待っていたら、いつになるかわかりません。その間、憲法に違反することが明らかな法律を放置すべきではなく、一日も早く国会自ら廃止してほしいものです。
 安倍内閣に逆らえない与党議員が多数を占める今の国会には期待できませんが、国会議員を選挙で選んでいるのは私たち有権者です。私たち一人一人が、それぞれのやり方で、国会議員に市民の声を伝えていくこと、日頃の国会議員の言動をよく見て投票することが、国会の暴走を防ぎ、憲法を守ることにつながるはずです。
 日々の生活では仕事や家庭のことで忙しく、政治には無関心になりがちですが、日本を戦前にしないために、政治の動きにしっかり目を光らせていかなければと思います。

                      平成27年9月 弁護士 酒井桃子

身近にある新宿歴史博物館

 わかばの風法律事務所のビルの目の前は小規模の三栄公園がある。近所の子供たちの遊び場であり、年に数回は町内のお祭りやボランティア企画などでにぎわう憩いの場である。大きな銀杏の木があり、冬場には黄金の葉を光らせて美しいが、2011年3月11日の東日本大震災の時には緊急の避難場所にもなり、ビルを飛び出して公園に待機した記憶がまだ生々しい。ともかく、小ぶりだが何かにつけ市民にその存在をアピールする公園である。
 さて、公園の隣には新宿通り方向に四谷税務署があるが、それとは反対の方向に新宿歴史博物館があるのをご存じだろうか。四ツ谷駅から四谷3丁目の間の、新宿通りからは一本奥に入った通り、通称三栄通りからは横道に入るが、その一角に白いブロック石の装飾道路が続き、急に落ち着いた閑静な風情の道を歩いて150メートルも行けば、小じんまりとしているものの3階建ての新宿区立の博物館がある。こんなに近くにいてもこれまで2,3回しか足を運ぶことはなかったが、時々気にはなっている博物館である。
 玄関前の横には、旧四谷見附橋の欄干の一部が展示されている。この橋は1913年に作られ1991年に架け替えられて、今も多くの人が行き交う橋として今日に至っているが、当時のバロック様式の鉄骨の一部がここに保存されている。
 3階建てのうち地下1階が常設展示室と企画展示室となっていて、今、企画展示室には皆さんご存知の紀伊国屋書店のその創業者である田辺茂一生誕110年を記念して、田辺茂一と新宿にゆかりの深かった作家50人の直筆原稿と写真、似顔絵が展示されている。
 さて、常設展示室は大方の歴史博物館がそうであるように、縄文時代の土器から中世、そして江戸から近代へと新宿の歴史を追っている。
 江戸の新宿といえば内藤新宿甲州街道の宿場町が有名。名所江戸百景の浮き世絵にも描かれている。絵の右半分が馬のお尻と足で大胆に描かれたデザインチックなあれである。この宿場町を起点として青梅街道と甲州街道が分かれてゆくが、これは現在もそのまま同じである。
 昭和初期の展示では、復元された文化住宅の模型がある。大正末から昭和の初めにかけて、山手線の外側にサラリーマンの住宅が立ち並んだという。小規模の和風住宅の小さな玄関わきに、洋瓦・洋しっくい仕上げの洋間の応接をつけて流行した「文化住宅」である。4畳半の茶の間には丸いちゃぶ台があり、夕餉の献立が乗っていたが、何故か、当たり芸「清水の次郎長伝」を演じた二代目広沢虎造浪曲が静かに流れていたのが、僅かに残る幼いころの記憶の妙にノスタルジックな感情を誘うのであった。
 皆さんもちょっと足を運ばれてみてはいかがでしょうか。
 
                     2015年6月30日  森田太三

四谷怪談の史跡?

 四谷3丁目の地下鉄メトロ駅の張り紙に、四谷怪談の神社とお寺の紹介が載っていた。平成13年に四谷に事務所を構えてからかれこれ14年目になるというのに、とんとそういう場所に足を運ばなかったから、年が明けて行ってみた。
 四谷警察署の横の路地を入って、警察署の裏側の住宅街の路地の一角に、於岩稲荷田宮神社(お岩稲荷)があった。
 この神社の斜め真向いには陽運寺というお寺があり、この寺は昭和の初めころの建立というが、こちらもお岩さんを祀ってある。いずれも紅い幟が立っていてすぐわかる。陽運寺には1月というので手水鉢には黄色い蝋梅(ろうばい)の咲く枝が添えてあり、もう一つには寒椿の白い花の小枝が添えられていて、手入れが行き届いていた。
 お岩さんは江戸時代の初期、田宮家の娘で、四谷左門町で健気な一生を送った女性で、夫婦仲は円満そのものであったようだ。お岩さんの奮闘で田宮家を家計的に助けたというので、このお稲荷は福を招き商売繁盛、家内安全の神として江戸の人々の人気を集めたそうだが、死後、200年もたってから、江戸後期、歌舞伎作者の鶴屋南北という人が、想像力豊かに、四谷左門町とは何の関係もない「東海道四谷怪談」を作り上げたという。江戸の文化が爛熟期に入った文政年間というから1800年代に幽霊物の読み物が最盛期を迎え、「東海道四谷怪談」の歌舞伎も江戸の話題をさらったとされる。
 四谷怪談で有名となったお岩さんだが、実は、嫁、妻の鏡のような女性であったという。怪談物に仕立て上げられたのは何とも皮肉である。
 この神社とお寺、住宅街の中にひっそりとあるが、地域に密着しているのか、私がうろうろしている最中にも、数人の近所の人や勤め人の参拝者が訪れていた。
 事務所の近くのこうした隠れた場所にも、時には足を運んでみるのもいいものである。
                      2015年1月26日  森田太三

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説明責任・損害賠償・刑事罰の境目、イタリアの地震学者無罪判決を材料に

 かねてから、報道・評論・投書・酒場談議などで、刑罰と民事の区別が意識されていないのではないか、と心配でした。ちょうどよい問題提起の材料があります。
 2014年11月12日の朝日新聞に、2009年の地震で300人以上が死亡した地震に関し、イタリアの地震学者らが逆転無罪になったという記事がありました。「逆転」ですから、最初は有罪だったわけです。但し、被告のうち当時政府の防災局副長官であった1名は、禁固2年・執行猶予付きの「有罪」が(減刑されましたが)維持されたのです。罪名は過失致死罪だそうです。
 記事によりますと、防災局副長官が「安心して家にいていい」と述べたことと、地震6日前の政府防災局の検討会において、地震学者らは「(群発地震が続いているが)大地震の予兆とする根拠はない」とし、そのことが、過失致死罪に問われたわけです。これを素材に考えましょう。

 「注目すべきだ」と指摘したい3つの観点があります

第1

 検察は「市民への情報提供のあり方」を問題視して起訴したという点です。予知が失敗したこと、つまり結果責任を問題にしたわけではありません。

第2

 遺族・生存者は判決に納得していないようです。記事によると、傍聴席から「恥を知れ!」という怒りの声が飛んだそうです。

第3

 判決理由は「証拠不十分」ということだそうです。これらをどう見るかについて、問題提起します。

 

・第1の問題提起です。

 「そもそも、起訴が間違いだ。これは刑事罰の問題ではなく、民事事件として扱うべきで、損害賠償すべきかどうかだけが問題である」という考えはどうでしょう。

・第2の問題提起です。

 「損害賠償にしても、日本での国家賠償法に定めているように、国のみが損害賠償請求の相手方となるべきだ」という考えはどうでしょう。

・第3の問題提起です。

 「国に対する請求訴訟においても、担当者が職務を真面目に遂行していたことが判明したら、国の賠償責任は認めるべきではない。結果責任は問えないし、職務を真剣に行っているかどうかだけを問題とすべきだ。」という考えはどうでしょう。

・第4の問題提起です。

 「担当者や学者は、職務上の地位についても左遷などの不利益をうけるべきではない。そうでないと結果責任を問われかねないことを恐れて、真面目にやりたい人も萎縮し、ことなかれ主義になってしまう」という考えはどうでしょう。

・第5の問題提起です。

 「但し、政府には説明責任はある。充分説明することが求められるが、充分か否かは政府の裁量である。あとは選挙結果の問題だ。」という考えが当然出て来ます。

 
 さて、上記の問題提起のなかの考えを、すべて肯定する立場に立つとどうなるかを述べてみましょう。

第1に

 刑事罰は生じないので、起訴すべきではないということになります。逮捕自体不当であり、仮に逮捕されていたら、直ちに釈放します。仮に世論を気にして起訴したとしても、裁判所は無罪を言い渡すべきだということになります。証拠不十分だから無罪なのではありません、証拠を集めれば有罪になる余地は「ない」のです。あくまでも、「そもそも罪となるべき行為に該当しない」ので無罪です。証拠調べすら不要でしょう。

第2に

 国家相手の損害賠償訴訟のみが認められるべきですから、訴訟も、個人相手であれば、証拠しらべなどせず、第1回の期日に、直ちに棄却(却下が正しいかもしれませんが、一応棄却としておきます)を言い渡すことになります。国を相手としたときのみ訴訟が実質的に進行します。

第3に

 国の責任も否定されることになります。「当時の学問・科学の知見・水準において、家から退去すべきだとの結論以外はありえないのに、あえて、もしくは誤って、逆のことを宣言した」と判断された場合は、職務を真面目に遂行していたとはさすがに言えないので、賠償すべきということになりますが、そうでない限りは棄却するべきだ、ということになります。

第4に

 担当者を左遷するのは、許されないことになります。そうでないと結局将来に向って、各担当者の仕事が、「ことなかれ主義」に陥ってしまうため、行政がおかしくなるではないか、というわけです。

第5に

 政府の説明責任を認める場合でも「政府の責任者が説明を行うべきものであり、その説明についての是非は選挙で判断されることになる」という考えに落ち着くでしょう。

 

 第4・第5の部分は、もう少し別の考えもあるでしょうが、議論の一貫性からは上記のようになるでしょう。それと「税金で救済するのだから、この事件の被害者だけ救済するのは不公平にならないか」という視点も、どうしても出てくるでしょう。ここは法的責任の有無の議論ではなく、責任が「有る」としても「妥当かどうか」という別の論点ですが、現実には無視できない影響を与える視点でしょう。

 さて、ここまで来てどう考えますか。どのような立場に立つかはともかく、「遺族や実際に被害を受けた人はどうなるのだ、あるいは遺族は納得できないのではないか」という当然の疑問が生じます。この疑問に対する制度の一つとして、現在の日本では、被害者が刑事手続きに参加する制度も出来ています。また、保険はまさにこのような場合のために設計されているはずです。ですが、上記の「納得できない」という問いかけは、刑罰の基本理念にかかわる疑問を含むことも見落とせません。
 この疑問は、刑法を学ぶ場合の議論として「結果責任でよいのか」「応報刑(目には目を、歯には歯を)はどうだ」「謙抑性が必要だ」「罪刑法定主義は前提だ」「社会防衛の視点をどう見るのか」「構成要件の解釈はどうあるべきか」「過失犯の要件と、故意犯との違いはなにか」などの基本問題につながっています、いずれも古くから議論されてきたことです。

 例えば、交通事故で人が死亡した場合は、応報刑という観点だけで言えば「死刑」ですが、そうはいかないでしょう。そうすると、過失の問題をどう考えるかということになります。さらに進んで、イタリアのケースをそもそも過失と見るべきなのか、過失だとしても刑罰か民事か、両方なのか、など議論は果てしないと言ってもよいのです。

 刑法は、一般の人でも「議論にもっとも参加しやすい」と言われています。実際に、刑事罰については、普通の方と話すと、法律家なみ、あるいはそれ以上の鋭い議論が出ます。「刑罰はどうあるべきか」という議論が盛んになること自体は、大変歓迎すべきことでしょう。
 しかし、それ以降の、「損害が生じた場合、それを社会がどのように負担し、どのように支払う形の社会システムを創るか」という部分も同じくらい大切です。これを民事と呼んでもいいのですが、この点についても、社会的にもっともっと議論が盛んになってもよい筈です。
 刑罰・民事の区別・損害賠償・社会的地位・説明責任の4種は意識的に区別して議論すべきです。そうすると、時間はかかるでしょうが、実り多い結果が生じるはずです。現実に日本でどうなっているかについては、あえて触れません。問題提起として書いてみました。

                                    以上

                              弁護士 小林政秀

 

適性な弁護士人口はどれくらい?

1 理想

 法曹人口は毎年500人の時代が続きましたが、1991年(平成3年)以降少しずつ増え、1999年(平成11年)には1、000人、2002年(平成14年)には1、200人、2004年(平成16年)には1、500人までになりました。その後、毎年の法曹人口の数を3,000人に増やし、2010年(平成22年)に司法試験合格者を3,000人に、2018年(平成30年)には裁判官、検察官を含めた法曹人口を5万人にするということになりました。
 これは、2001年6月に出された政府の諮問機関である司法制度改革審議会の意見書で提案されたものでした。その目的は、今後国民の生活において法曹の役割は大きくなるし、まだまだ全国的にも弁護士がいない地域が多くあり、また、経済金融の国際化の進展や人権、環境などの地球的課題などで紛争も多様化、高度化してゆくので、それに見合った法律家を「国民の社会生活上の医師」として多く作り出す、また弁護士、裁判官、検察官だけでなく、社会の様々な団体、企業、公共団体にも法律の資格をもった者が多数参画し、全体として社会の隅々に法律家が活動する社会をつくることが必要だとされたためでした。


2 外国の例
 当時、日本の法曹人口は諸外国と比べても少ないという事情も勘案されました。例えば、2001年当時、法曹人口は日本が20,000人(法曹1人あたりの国民の数は6,300人)、アメリカが約941,000人(同約290人)、イギリスが約83,000人(同約710人)、フランスが36,000人(同約710人)でした。


3 現実は
 弁護士会も法曹人口を大幅に増やすことは賛成し取り組んできました。ところが、今は、毎年の司法試験合格者は2,000人前後に止められ、3,000人はとても実現不可能な数とされています。
 何故でしょうか。司法試験合格者は、その後1年の司法修習を経て、弁護士、裁判官、検察官になってゆきますが、一番の原因は、毎年多くの弁護志望者が法律事務所への就職先がなく、すぐに独立して開業するとか、そもそも弁護士登録もできない事態が生じたからでした。弁護士の仕事は、医師と同様に、資格を取ればすぐに法律の紛争を手掛けることができるというわけにはいきません。法律事務所に入り先輩弁護士と一緒に具体的な法律紛争に関わり、「生きた法律の適用」「実務のトレーニング」を学ばなければ、一人前の法律家、弁護士にはなれません。そうした訓練を受けない法律家が生まれれば、結局、困りごとを抱えた国民の権利、利益を法律家として擁護してゆく要求にも応じられない、かえって害になるような結果となります。
 また、社会の様々な団体、企業、公共団体にも法律有資格者として参画してゆけるという考えも、現実にはそう容易ではないという現実もありました。
 現在、毎年の司法試験合格者は2,000人前後に止められていますが、この数でもまだ登録できない者が毎年400人前後も出ています。このためか、最近では大学の法学部に入学する学生も減り、定員割れをする大学も出てきました。
 結局、増加した法律家を社会が受け入れる容量が大きくならなかったというのが一番の原因でした。


4 外国とは違う
 では、どうして外国は日本と比べ法曹人口が多いのでしょうか。外国では法曹人口を受け入れる社会的な仕組みが日本と異なっていました。
 まず、司法予算が違います。司法制度は社会のインフラとして必要なもので、法律家のためにあるものではありません。そのためには予算が必要です。例えば、経済的に厳しい国民を支援する法律扶助の額を見ても、日本は43億円に対し、イギリスは1,630億円、ドイツで508億円、フランスで269億円です(2010年度統計)。国民一人当たりの額を見れば、日本は34円に対し、イギリスは2,690円、ドイツで616円、フランスで426円です。今の社会では、労働分野でも福祉分野でも経済や環境問題でも困った人は多くいます。法律の助けを借りなければならない紛争も多くあります。でも、一定の経済的な裏付けがなければ弁護士や裁判所に相談には行けません。法律家の数を増やしても、それだけでは「国民の社会生活上の医師」にはなれない訳です。
 また、司法書士行政書士、税理士、弁理士など同じく法律に関連する業務に携わっている隣接士業も外国では多くを弁護士が担っているのに対し(アメリカの弁護士の数が多いとされるのもこのためです)、日本では独立の士業として活動しています。例えば、司法書士行政書士、税理士、弁理士などの隣接士業の数は、現在でも14万人以上となっています。現在の弁護士数35,000人と合わせても、すでに約18万人前後の法律実務家がいることになります。


5 適正な弁護士人口はどれくらい?
 弁護士会では、今、毎年の司法試験合格者を1,500人まで減らすよう提案しています。
 これでも、将来、弁護士人口は5万人になると言われています。法律の専門知識をもった弁護士が社会の中でもっと有効に身近に活用されることはいいことです。
 そのためには、結局、増加した法律家を社会が受け入れる容量を大きくすることでしか解決しないでしょう。国民が司法や法律家を利用しやすくする制度をどう作り出すのか、法律扶助などの司法予算を増やし、裁判官、検察官も増やし、裁判所の手続きをもっと安価で利用しやすいものとし、社会の様々な団体、企業、公共団体に法律の資格をもった者が多数参画してゆけるような整備を推し進めるほかはないようです。
                              弁護士 森田太三

〒160-0008 東京都新宿区三栄町23-1 ライラック三栄ビル3階  電話03-3357-1751 FAX03-3357-1788